残しておく
記憶を
そして
記録を
報道では2011年 3月11日 午後2時46分
いつもどおり事務室で仕事をしていた
グラグラグラグラ・・・
ユラユラではなくて
グラグラグラグラ・・・だ
すぐ納まるだろうと言う安易な推測とは真逆に
その揺れはすぐには納まらなかった
揺れが始まって
間もなく照明が消えて
パソコンはバッテリーに切り替わった
大きい地震だ
施設からの退避勧告が出たので外へ
揺れが落ち着いてから事務室で待機
依然として停電状態
情報が閉ざされた
2人チームで市内の被害状況を確認しに出た
信号も止まっていた
社内のラジオが唯一の情報源
太平洋側の津波による被害が甚大だと知る
さいわい平川市内の被害はなかった
時間の経過を待つしかできない
もどかしい状態が続いた
市内の被害状況をまとめ
一旦帰宅することになった
17:00
母と妹家族の安全を確認して自宅へ
帰路
信号が止まっているにもかかわらず
質の高い日本人特有のモラルを感じた
あとになって知ったが
災害時における冷静な対応や姿勢は
教育水準の高さだと海外では評価されている
無事に帰宅できた
ロウソクを囲んで家族が待っていた
笑顔で 『 おかえりなさい 』 で救われた
さいわい反射式のストーブが1台あったので
それで暖をとった
早い時間に夜を感じた
長い夜の始まりだった
自宅の wifi は停電で使えなかったが
“ iPhone ”と“ iPad ”は3G回線で使えた
“ 東奥日報 ” と “ 東北電力 ” の
情報が欲しかった
“ 東奥日報 ” はサーバがダウン
“ 東北電力 ” は
アクセス集中でなかなかできず
アクセスできてからも
大まかな情報だけで
停電の復旧に係る詳細な情報はなし
情報はあきらめて晩御飯
晩御飯はカップヌードル
オラはミルクシーフードをチョイス
ロウソクを囲んでズルズルと食べる
水が止まらないのが一番の感謝
歯を磨いて
今日はすぐ避難できるように
1階の居間に布団を敷いて
家族で川の字になって
服を着たまま寝ることにした
子どもたちは
経験したことのない地震に怯え動揺していた
電池で動く壁時計は
元気に規則正しく時を刻んでいる
20:00
ストーブとロウソクを消して
枕もとに懐中電灯を置いて
みんなで布団に入った
真暗 そして 静寂
いつのまにか眠っていた
深夜と早朝に余震が何度かあった
モノがぶつかる音が
静寂が教えてくれた
6:00
夜が開けて
カーテンを開けて
朝日を浴びる
快晴だ
7:30
ネットで情報収集
“ 東北電力 ” よりも
“ twitter ” が一番の情報源だった
弘前の一部や
平賀の一部では
停電が復旧したとのこと
平賀の母に連絡をした
停電は復旧したとのこと
“ twitter ” の凄さを実感
朝ごはんはパン
ハムチーズクロワッサンにした
“ 東奥日報 " が届いていた
被害の状況を確認した
1面には悪夢が写真として載っていた
この状況下で届いた “ 東奥日報 " に感謝
10:00
碇ヶ関地域で炊き出しをするから
手伝ってほしいと同僚から電話がきた
12:00
昼ご飯は塩ラーメン
外は春の陽気
14:00
炊き出しの準備で
碇ヶ関公民館へ
炊き出しは婦人会のみなさん
オラたちは会場設営
発電機2台
ストーブ6台
投光器5台
それらを設置し終わった途端に
停電が復旧した
地震発生から
ちょうど24時間が経過した頃だった
生活が“いつも”に戻った
テレビには被災地の状況や
津波が荒れ狂った映像
窓から見える
いつもと変わらない風景に
震えながら手を合わせた
一刻も早い復興を
ただただ祈るしかできなかった
いつもの生活への安堵
また揺れるんじゃないかとの恐怖
入り混じった気持ちで
家の明かりで夜を迎えた
ながいながい24時間だった
この地震は
東日本大震災と名付けられた